すべての聖書的な教会は、弟子を造るために存在しています。

あなたの教会がその使命をどのような言葉で表明していようとも――
「神の真理を世にあって生き、宣べ伝える」とであれ、
「神の至高性への情熱を諸国民の間に広める」とであれ
すべての聖書的な教会は、弟子を造るために存在しています。
それはすなわち、 福音を信じ、御霊が内住し、みことばに従い、神の国を前進させる、 イエス・キリストの従者を育てることです。この目標は、さまざまな言い方で、また異なる強調点をもって表現することができます。
魅力的に言い表すこともできますし、簡潔に述べることもできます。しかし要点は一つです。 教会は、弟子を造るのです。
もちろんそうです......ですが、教会はどのようにこれをするのでしょうか?あなたの教会ではどのように行なっていますか?
思考実験が役に立つかもしれません。あなたの教会会員との関わりを通して信仰を持った人がいるとします。次はどうしますか?新しいクリスチャンのためのクラスに参加させるべきでしょうか?ファミリー・グループへの配置を急がせるべきでしょうか?もしかしたら『The Trellis and the Vine [トレリスとぶどうの木]』を読んで、その会員を弟子訓練し始めるかもしれません。
以上のすべては素晴らしいことです。では、次に聞きます。毎週あなたの教会で行われている会衆礼拝と、その赤子である信者の弟子訓練とはどのような関係があるのでしょうか?さらに言えば、その新しく形成された弟子関係と主日礼拝はどのように関連しているのでしょうか?もっと言えば、あなたの教会は、集まっているときに弟子を作っているのか、それとも会員が散らばっているときにだけ弟子を作っているのでしょうか?
簡単なグーグル検索をしたり、お気に入りの出版社の最新のカタログにざっと目を通したり、弟子訓練に関する最新の人気書籍を手に取ってみれば、一貫したテーマが見つかるでしょう。
それは、真の弟子訓練の働きは、よく構成されたプログラムか、自然な個人的な奉仕のいずれかを通じて行われると書かれているでしょう。
ミニストリープログラムや弟子訓練を中傷するつもりはありません。弟子を育てる文化、すなわち、愛の責務から会員同士が意図的に霊的な善を行う文化は、教会が健全であるために必要です。ミニストリープログラムはそのために役立ちます。
しかし私は、新約聖書が規定する弟子育成の核となるプログラム、すなわち会衆礼拝を無意識のうちに見過ごしている牧師が多いことを懸念しています。それはクリスチャンが成長するためには、どんなプログラムよりも基本的なことです。そうです。一週間を通して響き続けるみことばの個人的な働きよりも、もっと基本的なことなのです。日曜日の集会は、地域会衆の主要的な弟子訓練者なのです。なぜでしょう?宣言する事柄と、それが定められた習慣が理由だからです。
聖徒たちが日曜日に集まるのは、礼拝のためであり、成長するためです。そして神は、世界を創造し、生命を維持し続け、聖徒を聖化するみことばを通して、ご自分の民を成長させます(ヨハネ1:3-4、ヘブル1:1、ヨハネ17:17、第二テモテ3:16)。ですから、聖書が礼拝を、聖書を中心にして規制するのは当然のことです。集会では、聖書を読み、説教し(第一テモテ4:13、第二テモテ4:1-3)、その真理を歌い(コロサイ3:16)、その望みを祈り(エペソ6:18)、聖礼典を通してそのメッセージを視覚化するべきです(第一コリント11:26、10:21)。
日曜の朝の集まりは演出ではありません。派手さも詭弁にも特徴付けられてはいません。いや、聖徒たちは、一週間で最も重要な食事を提供する礼拝を牧師たちが計画していることを信じて、主日ごとに集まるのです。
言い換えれば、公同的な礼拝の集会は神のみことばを宣べ伝え、そのみことばが成長のための教えとなり、宣教のための訓練となるから聖徒を弟子化するのです。そしてこれらの聖徒は、集会で聞いたことを教えるように召されています(第二テモテ3:16-17)。
あなたの教会の弟子たちの関係やプログラムがどのようなものであってほしいか、考えてみてください。あなたが望んでいるのは、クリスチャンが聖書を読み、また教えることができるよう備えられ、罪を悔い改め、恵みによって動機づけられた聖さにおいて成長し、互いの重荷や悲しみをよりよく担い合うようになることです。日曜の礼拝は、こうした規律を磨くだけでなく、その方法を模範するものでもあります。
賛美、告白、感謝、願いなどの思慮深く、長い祈りを通して、聖徒たちは互いのために、また互いと共に祈る方法を学びます。神の行いの語り方が示されます。赦しを期待しながら罪を告白する方法を示されます。宣教師、自分たちの町、他の教会、そして仲間である会員のために祈ることを指導されます。
聖書が礼拝を規定しているため、聖徒は神が語るときに耳を傾けることを学びます。また、優れた説教者は本文を説明するだけでなく、聖書を解釈し、例えを用いるため、聖徒は自分自身で神のみことばを読み、研究し、教える方法を学びます。忠実な適用を通して、聖書を互いに指摘したり、慰め合う方法を学びます。忠実な説教は聖徒を支えるだけでなく、教える者として養成します。
聖礼典を通して、キリスト者としての生活が罪の悔い改めとキリストへの信仰によって特徴づけられることを身体で思い起こします(ローマ6:1-11)。多くの会員は、パンを通して一つの体として結ばれており(第一コリント10:17)、世とは明確に区別されています(マタイ28:19。)
聖徒たちは、ファミリーグループ、弟子関係、日曜学校、家庭礼拝で何をすべきでしょうか?聖書を学ぶこと、神を賛美すること、罪を告白すること、そして個人と全体の啓発のために互いを築き上げ合うことの何らかの組み合わせでしょう。簡単に言えば、日曜日に見たことをやるべきなのです。聞いたことを話すべきです。個々の会員は会衆礼拝での模範を模倣すべきです。結局のところ、健全な集まりはやがて健全な弟子を生み出し、弱い礼拝はやがて弱い弟子を生み出すか、あるいは必要な備えを他で探すように教えることになります。
聖書の教会ミニストリーのパターンは、説教壇から人々へ、集会からそれぞれの状況へと移っていきます。逆であることはありません。他のすべてのミニストリーは、教会の主要な集まりに従属し、その周囲に配置されるべきです。教会の他のすべての弟子たちの支流に生命と方向性を与える轟く川となることが意図されています。順番が逆になることはありません。
エペソ4章には、キリストはすべてのものを満たすために昇天されたと書かれています(エペソ4:9-10)。その栄光の御座での働きから、教会に分け与えられます。特にパウロは、使徒、預言者、牧者、教師という教えの賜物を挙げています(11節)。キリストのからだを建て上げる務めのために、聖徒を備える者として与えられているのです(12節)。牧師たちは聖徒たちを教え、訓練します。そうすると、会員は牧師がするように、愛をもって真理を語ります(15節)。説教も話すことも、体全体が成熟していくために必要なことです。
しかし、時間的にも機能的にも、一方が第一であることに注目してほしいです。弟子訓練は、牧師から人々へと流れていきます。日曜日から他のいずれの曜日までもです。いずれの弟子訓練の会話、聖書の学び、カウンセリング、家族礼拝の夕べはすべて、日曜日に教えられ、模範とされたみことばが響き渡っているのです。教会は集まり、そして散ります;聖徒は休息し、そして働きます;牧師は説教し、そして会衆はオウム返しをします。これこそが聖書的ミニストリーの基本的な形です。一つの弟子訓練の出来事が、他の出来事に結びつき、導いて行くのです。
集会を優先してください。神が魂を救い、信仰を維持するために聖書を用いられることを踏まえて、集会で聖書を読みましょう。会員が家庭や分級で何をすべきか、模範を示しましょう。何度も読みましょう。章を丸ごと読みましょう。聖書を公同的に唱和しましょう。
集会で祈りましょう。会員の神への信頼と神との交わりを高めることを知りながら祈りましょう。神を賛美し、罪を告白し、失われた者のために嘆願し、近隣の教会を覚え、兄弟姉妹のために名指しで執り成すなど、聖徒たちがお互いに、そしてお互いのために祈って欲しいと思う祈り方で祈りましょう。
そして説教してください。神があなたを通して死者をよみがえらせ、怠け者を奮い立たせ、忠実な者を励まし、飢えた者を養い、傷ついた者を癒すことを信じて説教しましょう。会員が互いに教え合うために、より備えられている状態で帰れるような説教をしてください。聖書本文を講解してください。難しい質問に答えてください。聖書を聖書で解釈してください。それをあなたの教会に適用してください。
教会はどのようにして弟子を作るのでしょうか?公同的集会を通してです。聖徒をキリストにあって完全に成熟させるためには、集いだけでは十分ではありませんが、その集いは他のすべての良い働きの原動力となるのです。
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[1]この点については、ジョナサン・リーマンWord-Centered Church: How Scripture Brings Life and Growth to God'sPeople(Chicago: Moody Publishers, 2017)を参照。