ユースと教会員制度 ― あるいは、子供たちを何もない空間に放り出すような洗礼はやめよう

主は神の新しい契約の民がどのように子供をその一員として受け入れるべきかについて、決して語られていません

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確実な土台として、若者(すなわち18歳未満)と教会の会員制度というトピックに直接言及しているすべての聖句を挙げさせていただきます。

そうです。一つもありません。主は神の新しい契約の民がどのように子供をその一員として受け入れるべきかについて、決して語られていません。(私がこのように言うと、幼児洗礼主義者たちは呆れて顔を覆うでしょう。)

#原則的思慮

この会話は、思慮と知恵の領域で行われるべきです。これは「主はこう仰せられた」ではありません。むしろ、「主がこれこれについてこのように仰せられたので、それについてはこれが最善の道だと信じるのが妥当だと考える」ということです。しかし、最善の思慮ある判断は原則に裏打ちされており、最良の知恵は律法を考慮します。

では、若者と教会の会員制に関する私たちの理解を形成する原則はあるでしょうか?いくつか思い当たります。

1.神は若者を救う

もし今週の日曜日に教会で世論調査を行い、信者たちに「18歳の誕生日を迎える前に救われた人は何人いますか?」という簡単な質問をしたとしたら、ほとんどではないにしても、多くの人が手を挙げるだろうと言っても過言ではありません。なぜでしょう?神は若者を救うからです。友達に誘われて学生会にきた17歳も救います。未信者の親が単に休憩と無料の託児を必要としていたためにVBSに預けられた5歳児をも救います。神は若者を救います。

2. 教会の会員になることは、神が救った人々に限定される

私たちの地域の教会、すなわち、神の新しい契約の民の集まりであり、今や復活し統治するキリストの頭の下に再構成され、聖霊に満たされた祭司たちによって満たされた真のイスラエルの大使館である教会は、意図的に混合した組織ではありません。国家イスラエルは、もちろん、異なる物語を辿りました。意図的に混ざり合うように設計されていたのです。しかし、真のイスラエルはそうではありません。新しい契約の時代において、神は、新しい心が産道の終わりに与えられるのではなく、信仰の人生の始まりに与えられるということを、はっきりと示したかったのです。

3.個人の救いを見極める際、私たちは確かな信仰告白を求める

会員として推薦すべきかどうかを見極める際には、年齢に関わらず、福音に対する明確な理解、死から生へと確かに回心したという明確な自覚(たとえその日、月、あるいは年を特定できなくても)、そして生き方と願望における明確な変化があるかを確認すべきです。これら3つのうちいずれかが欠けている場合、少なくとも立ち止まって、目の前の人が本当に新生しているのかどうかを検討すべきです。

「救われるためには何をすべきですか?」と尋ねるすべての人が、本当に救われたいと願っているわけではありません。思い出してください。イエスが彼の生き方についてたった一つの質問を投げかけただけで、信頼に足る信仰告白が一瞬にして崩れ去った金持ちの若い役人のことを考えてみてください(マルコ10:17-22)。

少なくとも信者洗礼主義者にとって、これら三つの原則について比較的異論はありません。残念なことに、4つ目は大多数とは言わないまでも多くの信者洗礼主義の教会によって、ほとんど見捨てられてしまったのではないかと危惧しています。

4. 洗礼はほぼ必ず教会員になることを伴う

2002年に私は教会で洗礼を受けましたが、教会に洗礼を通して入ったわけではありません。スポーツに例えると、私はFA(自由契約選)であるクリスチャンとして洗礼槽に立ちFAであるクリスチャンとして水の中へ下りていき、そしてFAであるクリスチャンとして水から上がってきました。洗礼が内面の現実を示す外的なしるしであるということだけでなく、霊的な組織、すなわち地域教会への外的な入り口としても機能することをどうやら他の誰も、私も一度も考えなかったのでした。洗礼がいわゆる私のキリスト教生活の始まりであることは分かっていましたが、私のキリスト教生活が地元の教会への服従を中心に形作られるべきだとは全く思いもしませんでした。

簡単に言えば、教会員になることはほぼ必ず洗礼に伴うべきなのです。これは新約聖書のほぼ一貫した証言であり、私が思いつく唯一の例外は、ピリポがエチオピアの宦官にバプテスマを施す使徒の働き8章の記述です。しかし、その例外がその規則を裏付けています。なぜなら、その洗礼はまだ教会が存在しない地域・人々の間で行われた洗礼だったからです。

洗礼と会員制度を密接に結びつけない場合、会員制度を非聖書的なものにしてしまいます。ですから、超教派宣教を遠隔地の部族の間で行っていない限り、バプテスマは教会会員制に付随すべきです。

私が教会との何のつながりもないまま洗礼を受けたのは、クリスチャンの生活や弟子訓練における地域教会の役割を軽んじる世界であるからこそ起こり得たことです。残念ながら、これは珍しいことではありません。

#一選択肢の除外

したがって、教会は教会員になることなしに若者に洗礼を施すべきではありません。そうすることは、聖書的ではなく、不利益であり、愛のないことです。

それは聖書的ではありません。なぜなら、(エチオピアの宦官のように宣教の最前線にいる場合を除いて)聖書は洗礼を受けたクリスチャンが地域教会に所属せずに生活することを想定していないからです。

若者が道を踏み外し始めるとき、ユースパスターたちは貴重な道具がすでに抜き取られた工具ベルトを渡されるため、それは何の役にも立ちません。彼らは若者を長老[牧師たち]のもとへ導くことはできません。その若者には長老がいないのですから。特定の道を歩み続けても、その若者に待ち受ける教会戒規の過程を長老たちは彼に提示できません。彼を懲戒できる教会がなく、また、いかなる種類の契約にも彼は同意したことがないため、それを破ったとしても、彼が認識できる形での除名は正当化できません。

そして最後に、それは愛のない行為です。なぜなら、個人主義的にキリスト教の生活を理解する考え方を根付かせてしまうからです。例えば、私は12歳で洗礼を受けましたが、私の弟子としての歩みが、敬虔な指導者の権威の下、他の聖徒たちと交わり地域教会と結びつく中で形成されることをイエスは意図していると学んだのは、それから約10年後のことでした。

10年間、私はどこへでも気の向くままに自由に動き回ることができ、神に命じられて私の面倒を見る者はいませんでした。幸いにも、神は私を守ってくれましたが、私は自分の弟のことを思います。あるいは、文字通り何十人もの友人のことを思います。彼らの何もない空間への洗礼は、まさにどこにも辿り着かない旅の第一歩に過ぎなかったのです。彼らのキリスト者としての生活は消え去り、その信仰告白は今や沈黙しています。洗礼によって築かれた地域教会とのわずかなつながりも、15年間の教会からの無関心によって断ち切られてしまいました。もし洗礼を受けた人が森で迷子になり、誰もそれを見る人がいなかったとしても、それは本当に大事なことではないのでしょうか。イエスは大事であるべきだと言っています(ヨハネ10:1–21)。

悲しいことに、何千人もの子供たちが同じ運命をたどることになるでしょう。そして、彼らが属する教会がそのように仕向けてしまうのです。

彼らはバプテスマを通して、若い時に信仰を肯定されました。彼らは7歳だったかもしれませんし、17歳だったかもしれません。その瞬間はこれらの喜びを伴いました。始まりと終わりの両方をもたらし、古いものは洗い流され、ついに新しいものが訪れました。

しかし、教会会員制を伴わない洗礼は、これらの若いキリスト教徒を、どこにも通じない扉へと導いてきました。

それは彼らを、美しい家のように見える場所、成長し、学び、探求できる空間へと導きました。しかし、それは見せかけでした。新しいクリスチャンに洗礼を施す時、私たちは、彼らに家族であることを伝えます。私たちと一緒にここに住んでいいこと、ソファにどっかり座って寝室を選び、冷蔵庫を好きな食べ物でいっぱいにしてもいいと伝えているんです。彼らはしばらくここにいることになるのですから。彼らは家に帰ってきたのです。しかし、教会会員制、相互のコミットメントなしに誰かに洗礼を授けるとき、私たちは彼らを家へ招いているのではなく、毎週日曜日の午前10時から午後2時までのオープンハウスへと招いていることになるのです。家具は演出用に配置されており、これらのベッドで実際に寝る人はおらず、家電製品は作動すらしません。全て見せかけなのです。

これを実践している教会、牧師、ユースグループの皆様、行なっていることを再考することをお勧めしたいです。それは聖書に反する慣行であり、悪い実を結びます。むしろ、その若者にとって5年後、あるいは10年後に何が役立つかを考えてみてください。ある人が神の御霊によって新生したと断言しながら、その人を神の民から公式に締め出し続けることが、いかに二心であるかを考えてみてください。今はこんなに喜びに満ちた瞬間で、今は想像できないことかもしれませんが、いつかあなたは彼らのことを忘れ、彼らもあなたのことを忘れ、この全てが無意味になることを考えてみてください。

#3つの有望な選択

ですから、子供たちを何もない空間に放り出すような洗礼はやめましょう。それは有望な選択肢ではありません。しかし、私の見るところでは、前述の原則のいずれをも損なうことなく、この問題に向き合う方法は少なくとも3つあると思います。これらについては以下で論じ、聖書の知恵と最善の慣行にどれほど則しているかについて、私自身の評価を提示します。

アプローチ1:異例の状況を除き、教会は若者に洗礼を施さないため、会員として受け入れることもない。

キャピトル・ヒル・バプテストのような教会は、私が上で述べた恐ろしい話に同意し、その話を将来の世代に永続させることへの共謀を避けるために、未だキリスト教徒の親の権威下にある若者を一般的にバプテスマを授けないでしょう。この慣行は、年齢に関わらず、いかなる人も信仰告白をどれほど真剣に受け止めるべきかという点を、適切に際立たせていると私は思います。キャピトル・ヒル・バプテスト教会の子どもとバプテスマに関する声明はこちらでご覧ください。

さらに、洗礼が家族の通過儀礼ではないことが明確になります。洗礼とは、教会がある個人を受け入れ、その個人が家族以外の組織に自身が従うことを意味します。

このアプローチの根底にある原動力は、キリスト教徒の子供の信仰告白の信憑性を見極めることが単純に難しいという点にあります。従順を再生と誤解しがちです。

さて、異例の状況下では、CHBCのような教会はより柔軟性を示すでしょう。例えば、近所のイスラム教徒の家庭にいる子供が自ら教会に通い始め、イエスを信じるようになるかもしれません。あるいは、生涯公立の学校に通ってきた15歳の若者が、盛んな伝道ミニストリーを持っているかもしれません。これらの仮定の状況では、その若者を少なくともバプテスマと会員資格の候補者として検討するのに十分なほどの証拠が積み重なっているでしょう。


このアプローチは私自身の見解ではありませんが、この慣行には共感します。なぜなら、それが問題を的確に特定しているからです。その問題とは、何十もの教会が毎年毎年洗礼を授けた名ばかりのクリスチャンである若者たちの続く生活が、信仰告白を覆すものだとしても、その人たちに教会戒規を問う意図が全くないというものです。これらの場合、問題は洗礼の有無ではなく、意味のある教会会員制度と教会戒規の欠如にあります。

ちなみに、もし教会戒規を全く実践していない教会にいるのであれば、将来の不従順を防ぐためだけにでも、この道筋に従うべきです。

アプローチ2:教会は若者に条件付きの教会会員制への洗礼を施す

私は現在[記事が書かれた当時]、この第二の道を取っている教会、ニューヨーク州クイーンズにあるノースショア・バプテスト教会のユースパスターを務めています。それは私が受け継いだ慣習で、次のようなものです。若者を「条件付き会員」として洗礼を授けます。これは、会員総会への出席、様々な立場での奉仕、無料の聖書カウンセリング、そしてもし悔い改めの伴わない罪を犯し続けている場合には戒規の対象となることさえも可能にするものです。

彼らはほぼあらゆる点でノースショア・バプテスト教会の会員ですが、私たちの会議での投票権はありません。また、議題が彼らにとって成熟しすぎていると(彼らの親、または私たち長老のいずれかによって)判断された場合、退席を求められることがあります。

このアプローチは現実を認識しています。彼らは子どもなのです。高校2年生か3年生がほとんどではありますが。しかし、多くの点では彼らを対等に扱ってもいます。それは、私たちの彼らへのコミットメントを高めるのと同様に、彼らへの期待をも高めます。その期待は、彼らがユースグループを卒業するまでにとどまらず、主がとどまり、彼らが近くに留まるならば、その後の彼らの人生の残りの期間にわたるものです。

アプローチその3:教会は若者に洗礼を施し、完全な投票権を持つ会員とする

これは基本的に前のアプローチと同じですが、あらゆる制限が解除されています。確かに、親が子供に特定の会話を聞かせないことを選ぶことはできるでしょうが、そうすることが義務付けられているわけではありません。

参考までに、これが一番すっきりしているので、私はこの選択肢を好みます。「条件付き会員制度」は聖書にはない区分です。もし若い人が聖霊なる神によって新生し、日々キリストの姿へと新しくされ、聖霊が彼らのうちに愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、自制といった実を結ばせているのであれば、私は彼らが会員制度、指導者、教義、その他すべての事柄について投票してもらうことに大賛成です。御国の鍵を駆使する特権は、大人にではなく、主イエスを受け入れ、その御名を信じ、それによって神の子となる権利を与えられた者たちにこそ与えられているからです。

まとめ

上司に叱られるといけないので、この件に関する(もしあるとすれば)「9Marksの見解」を提示しているのではなく、ここでは私自身の見解のみを述べています。

上記3つの選択肢のどれを選んだとしても、若い人々に聖餐は教会の会員(またはその日に教会に来た他の教会の会員)のものであることを理解するのを助けるべきです。洗礼や教会会員制と同様に、聖餐式は私たちがからだの一員であることを示すしるしです(第一コリント10:17)。したがって、親が子供に対して時折行うように、洗礼を受けさせずに聖餐式だけを与えるのは理にかなっていません。教会会員制、洗礼、聖餐の3つは、切り離さずに維持する必要があります。それらを分けることは、その意味を非聖書的なものに変えてしまいます。

確かに、聖書は若者をどのように教会の会員に入会させるべきかというテーマに直接的には言及していません。しかし、聖書は救いと教会会員制度に関する譲れない原則を提示しており、それゆえに私たちの実践を導き、形成されるものでなければなりません。