神は超越的(無限・聖なる)であると同時に内在的(近く・親密)であり、この両方の真理を保持することが真の礼拝と福音理解に不可欠だという内容です。
息子のデヴォンが4歳くらいのある日、彼は神の存在について考えていました。典型的な4歳児の行動ではないことは認めます。しかし、デヴォンは独特な子供でした。そして、そう考えているうちに、彼は深い考えを抱きました。神は月や星よりも偉大だが、それでも私たちの中に収まることができるというものでした。どうしてこのようなことがあり得るのか。彼の結論は何だったのでしょう?
神はとても大きい。でも、時々、神はとても小さいことがあるという結論でした。
息子の洞察は、私たちが神の超越性と内在性について考えるときに感じる対立概念を示唆しています。
「超越性」とは神学用語で、神が被造物の上にあり、被造物とはまったく別の存在であり、被造物から独立した存在であることを意味します。
神はその存在のあらゆる側面において無限であり、決して変わることはありません。源もなければ始まりも終わりもないのは神だけです。神は何も必要とせず、何にも依存せず、誰にも借りはありません。神は「聖なる、聖なる、聖なる 」存在です。簡単に言えば、神は神であり、私たちは神ではないのです。
[時に、神はあまりにも遠く、神を愛することは難しいと思います。ある時は、神があまりに親密に感じ、、恐れることが難しいと思います。」]
ただし、神はまた内在的でもあります。神は被造物を支え、被造物に関わり、被造物の内に存在します。私たちの体が粉々にならないように保ち、家畜が食べる草を育て、神の世界に個人的に関わっています(コロサイ1:17、詩篇104:14、24-30)。私たちがどれほど小さく、罪深い存在であるにもかかわらず、神は愛にあふれ、優しく、柔和で、思いやりがあり、善良です。
神との個人的な交わり、公同的な礼拝の集まりにおいても、私たちは振り子のように神の超越性と内在性の間で揺れ動きがちです。時に、神はあまりにも遠く、異質で、私たちより超越していると感じ、神を愛することは難しいと思います。ある時は、神があまりに親密に感じ、あまりにも存在が間近で、私たちと同じように感じ、恐れることが難しいと思います。神についてのこの2つの考えを持ち合わせることは、尽きない課題ではありますが、少なくとも4つの大きな理由から、非常に重要なことであるとわかります。
聖書は、時に恐ろしく、時に近づきやすい神を明らかにしているわけではありません。また、ある時は私たちよりも無限に高く、また別の時には私たちに密接に関わる神を描いているわけでもありません。神は同時に両方なのです。
決して聖書は、一見矛盾しているように見える方法で神を描写することをためらいません。2つの例を挙げます:
いと高くあがめられ、
永遠の住まいに住み、 その名が聖である方が、こう仰せられる。
> 「わたしは、高く聖なる所に住み、
砕かれた人、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人たちの霊を生かし、
砕かれた人たちの心を生かすためである。(イザヤ57:15)
>だれが 私たちの神 主のようであろうか。
主は高い御位に座し
身を低くして
天と地をご覧になる。
主は弱い者をちりから起こし
貧しい人をあくたから引き上げ
彼らを 高貴な人々とともに
御民の高貴な人々とともに 座に着かせられる。(詩篇113:5-8)。
神は永遠に住まわれる方でありながら、卑しい者の間でも住まうことができます。神は高きに座しておられますが、困窮している人々を救うためにあくたの山へと向かいます。別の箇所では、イザヤは、私たちの造り主であり主である全地の神である聖なるお方が、ご自身のことを私たちの夫と贖い主であると喜んでおっしゃっていることを思い起こさせます(イザヤ54:5)。神のみことば以外に、これほど思考を広げ、魂を揺さぶる神の描写がどこにあるでしょうか。
オランダの偉大な神学者、ヘルマン・バフィンクは正しかったのです:
>同じ規模、同じ方法で、聖書ほどに、あらゆる被造物の上にある神の絶対的超越性を支持すると同時に、被造物と創造主との親密な関係を支持する書物は、この世に存在しません。(The Wonderful Works of God、115)
聖書は、私たちが考えつくどんな神よりも、計り知れないほど偉大で、より満足感を与えてくださる神を明らかにしています。
私たちはしばしば、神を人間という箱に収めようとすることで、神学的な対立概念を避けます。神の超越性と内在性の間で揺れ動き、神が多重人格障害を持っている方だと思われないようにします。しかし、神は二心を抱く方ではありません。神は神です。主は罪人を怒りで焼き尽くすほどに聖なる方であり、私たちを限りない歓喜で包み込むほどに優しい方なのです(詩篇21:8-9;16:11)。主は、無数の燃え盛る星々をその航路に留まらせるのに十分な力を持ち、そのひとつひとつに名前をつけ、私たちの頭髪の数を数えるまでにも十分な親密さがあります(エレミヤ31:35、詩篇147:4、ルカ12:7)。
私たちは神を自分の姿に似せて形作ることに慣れているので、神が私たちと同じように行動したり考えたりしないことを信じるのは難しいかもしれません。この記事を書く準備をしているときでさえ、私は自分の神に対する考えが一貫して平凡であることに気づかされました。そのため、私たちは常に強まり、深まっていく畏敬の念ではなく、短時間の散漫な驚きの瞬間を経験します。
神が超越的な存在であることを忘れると、神を恐れることが難しく、不必要であると思い始めます。神が内在的な存在であることを忘れると、神を愛することが難しく、不必要であると思い始めます。しかし、神はその両方なのです。このことが神をより恐れさせ、愛を深めます。
神の超越性と内在性は、より深い、より感謝に満ちた礼拝への扉です。私たちの教会の集会や個人的なデボーションでは、神の超越性と内在性の両方を大切にしていないことゆえに苦しむことがあります。もし神が偉大でなければ、私たちに敬虔さ、恐れ、服従を強いることはないでしょう。もし神は近くにいると思わなければ、私たちの感謝、喜び、驚きを呼び起こすことはないでしょう。
[神の超越性と内在性は、より深い、より感謝に満ちた礼拝への扉です。]
今日の多くの教会は、神がいかに近くおられるかを強調する傾向があります。私たちは、心地よさと歓迎されているという気持ちを重視しています。教会に到着したら、淹れたてのコーヒーを飲むのが当然だと考えて、私たちはその朝に犯した罪のためにそこで処刑されるに値するとは思いません。ですが、神の憐れみがなければ、後者の方が適切でしょう。
もし、日曜日の集会に参加したり、聖書の勉強を始めたりするとき、神が用意してくださらない限り、私たちが会おうと望んでいる神さまに近づく手段はないということを意識していたらどうでしょう?もし、私たちを親密な交わりに招いてくださる神が無から宇宙を創造され、「偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて」(歴代誌第一29:11)神のものと理解するなら、私たちはもっと大きな声で歌い、もっと意図的に聖書を読むのではないでしょうか。
同時に、超越的な存在としか見ていない神と私たちが関わろうとすると、義務的で、退屈で、不愉快で、あるいは非合理的な崇拝につながりかねません。なぜ遠く離れた神に祈り続け、私たちの声を聞いていないかもしれない神に歌を歌い、神の世界とあまり関係がない(あるいは関心がない)ように見える神についての説教を聞き続けるのか、疑問を持ち始めることがあるでしょう。
神はご自分に似せて私たちを造られ、そして果てしなく私たちと異なります。どちらも本当です。そして、神がどれほど違うかを理解すればするほど、神が私たちに近づくことを選んだこと、私たちを知り、私たちの名前を呼び、私たちを喜ばせてくれたことに驚嘆するようになります。それは、神の内在性と超越性の対立概念を持ち合わせることが非常に重要である最後の理由につながります。
数え切れないほどのクリスチャンが、福音を十分に体験できずに生きています。イエス・キリストが完全な生涯を送り、彼らの罰を受けるために十字架上で死んでくださり、彼らを義とするために死からよみがえった神の子であることは肯定できます。しかし、その日常生活に大きな違いはもたらしません。慰めや喜びの源というよりは、死んでも地獄に落ちないことを保証する抽象的な教義になってしまいます。
しかし、神の超越性、つまり、その聖なる絶対性、絶対的完全性、無限の知識、必然性、正義への揺るぎない永遠の確約に照らして見るとき、福音はこの上ない良い知らせになります。私たちの考えを遥かに超えた慈しみ、憐れみ、優しさ、そして善意という神の内在的な心を明らかにしてくれます。まさに知識に勝る愛なのです(エペソ3:19)。
そして、イエスと御父が聖霊を遣わされた今、神は私たちの周囲だけでなく、私たちの内にも御自身の存在を現されます(ヨハネ14:26、ヨハネ15:26)。時間、空間、性質の限界を知らない神は、私たちの心に住まわれました(列王記第一8:27、第一コリント6:19)。このような理由から、神のみが「地の果てのすべての者よ。 わたしを仰ぎ見て救われよ。 わたしが神だ。ほかにはいない」(イザヤ45:22)と言うことができるのです。
神のような方はいません。神は本当に救う力がありますし、救ってくれます。主は神聖であり慈しみであり、恵みであり真理であり、主権者であり僕であり、神であり人であるのです。主は「すべての上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられ」ます(エペソ4:6)。神への私たちの想いと礼拝が、神が実際どういう方であられるかをますます反映し、私たちの限りない喜びと神の限りない賛美となりますように。
神はとても大きいです。しかしとても小さいこともあります。