クリスチャンはノンクリスチャンと結婚して良いのか?聖書神学

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「良い気がする、良いと思う、どうして間違っているんだ?」

この言葉は、エルビス・プレスリー(作家:ベン・ワイズマン)が歌った歌詞です。しかし、クリスチャンがノンクリスチャンと恋愛関係をし始める頃によく耳にする言葉でもあります。

そして、多くの場合、話がこのように続く。

「前までは第二コリント6:14の『不信者と、つり合わないくびき』は恋愛関係のことだと思ってたが、よく文脈を見るとそこでは結婚のことではなく、教会における信者と不信者の交わりへの警告だと分かった。それで、『クリスチャンはノンクリスチャンと結婚してはならない』と明確に言う聖句を探してみたが、一つも見つからなかった。信頼しているクリスチャンの友人たちにも相談したが、誰も見つけられなかった!だから自分が間違っていたのだと思い、この交際は続けてよいと判断した。とにかく、その人はとても福音に興味を持っていて、私の信仰に魅力を感じて、変わらなくって良いって言ってくれた!よく考えると、多くのクリスチャンよりもこの子は信仰を支えてくれると思う。」

ある誘惑は明らかに罪であり、クリスチャンは罪悪感の暗闇に隠しがちです。独身者には少なくはないだろう例えとして、ポルノはそうだと思います。その罪を告白する場合、難しいのは罪を犯したという認識ではなく、長く苦しい悔い改めのプロセスです。

それと全く違うのが、ノンクリスチャンとの恋愛関係です。不信者との恋愛関係は隠そうとせず、正当化しようとするのです。まずは自己正当化して、次に警告しようとする周りのクリスチャンにその行動を正当化しようとする。正しいと感じると、それが正しいことを証明するために聖書を読み返す。

この記事はノンクリスチャンとの恋愛に悩んでいる人へのカウンセリングの方法ではないのです。それをするには、結婚とはどのようなものなのかを細かく見る必要があります。つまり、キャリア、住む場所、お金の使い方、子供の育て方などについて、どう決断していくかを考える必要があるということです。結婚相手と全く違う人生目的を持っていると、このような決断はさらに複雑になっていきます。それらのいくつかをよりよく探るために、この記事

(https://www.thegospelcoalition.org/article/dont-take-it-from-me-reasons-you-should-not-marry-an-unbeliever/)(現在英語のみ)をオススメします。何よりも、ノンクリスチャンとの恋愛で悩むクリスチャンは、自らの動機を注意深く確かめ、神の忠実さと良さを深く思い返す必要があります。神が求めておられるのは、妥協を含んだ献身ではなく、純粋な信頼なのです。  

それよりもこの記事の目的は、未信者との交際について、聖書全体の流れから簡単に考察することにあります。 未信者と付き合わないことは、神に従うことなんだ、という点を伝えたいのです。 ここではっきり伝えたいのは、どのように感じていたとしても、不信者と恋愛関係を持ちたいという思いは、神が「間違っている」と言われることを「正しい」と思わせようとする誘惑だということです。神はそのような感情を良しとはされません。

もし誰かが、不信者との恋愛を避ける理由を、聖書の一部を切り取った「断片的な根拠」にだけ頼っているのだとしたら、その思いは驚くほど簡単に崩れてしまいます。 ほんの少しその人の瞳を見つめ、優しく気にかけてもらい、そして一生を共にしたくなるような関係の予感に触れるだけで、聖句一つや二つの解釈など、すぐに揺らいでしまうのです。

そして私自身の痛い経験からも言えるのは、関係が始まりそうなその最初の段階で、そうした薄弱な確信の土台が崩れてしまうと、その人は聖書の教えを丁寧に吟味し、より堅固な聖書的土台を築き直すような状態には到底いられない、ということです。

聖書神学の短いまとめ

この文章がそのような状況にある人に多少役立てれば幸いですが、むしろより役立てたいのは、誘惑が起こるずっと前に、未信者と恋愛関係にならないという決意を固めておく必要があるクリスチャンたちへの助けです。

はっきりさせておきますが、異性と二人きりで長時間一緒に過ごすと、恋愛関係になる可能性は高くなります。つい先日、親しい友人と痛ましい話をしました。彼は、恋愛関係になるつもりはまったくなかったと言っていました。しかし、彼は数週間にわたり、真夜中過ぎから何時間も何時間もある異性の人と1対1で過ごしました。

恋愛関係になりたくないなら、1対1で何時間も過ごさないことです。もし異性の方と福音について良い機会があるのなら、その方を、同性の信仰深いクリスチャンに紹介してあげましょう。もしその人が本当に福音に関心があるなら、あなたから聞くのと同じように、同性の信仰深いクリスチャンから聞くことも喜ぶでしょう。もし主があなたと結婚させたいと望んでおられるなら、その人が信仰に導かれることによって、あなたがその関係を進められる可能性があることを明らかにしてくださるでしょう。

さらに、未信者と交際してはいけないという根拠となる聖句を探すこと自体、いくつかの理由から不自然なことです。

まず第一に、私たちが理解するような「お付き合い」とは、聖書の時代には実際には存在していませんでした。第二に、「誰と結婚すべきか?」という問いは、単なる聖句ひとつやふたつの規則から答えが出るものではなく、結婚とは何かという聖書全体の神学から導かれるものです。

もしクリスチャンが未信者との結婚を禁じられているのだとすれば、未信者と恋愛関係に入ることは、少なくとも自分から意図的に誘惑の中に踏み込む行為だと言えます。相手の心に聖霊による超自然的な回心がなければ結婚できないなら、そもそもそのような結婚を考えること自体、とても愚かで、相手にも優しくありません。

これから、信者が未信者と結婚することが聖書の教えに反していることを、聖書がどれほど明確に語っているのかを示したいと思います。

1)創世記1章:結婚とは、神の命令「生めよ、増えよ」と「支配せよ」に従うことで、神の姿を現すものです。

創世記1:26-28において、神は結婚を、神の支配のもとで被造物を治める共同の働きとするように定められています。もし私たちが神の支配のもとで治めていることを認めなければ、私たちは偶像、あるいは一連の偶像の支配のもとで治めることになってしまいます。

実際のところ、これは夫婦としての全ての決断に影響します。例えば、人生のあらゆる場面で、あなたは何を基準に判断すべきでしょうか?あなたは:

1) 主を喜ばせることをするべきか

2) 自分を喜ばせることをするべきか

3) 他人を喜ばせることをするべきか

クリスチャンにとっては、1 が2 や3 よりも優先すべきです。ノンクリスチャンにとっては、選択肢は 2と3しかありません。

2)創世記2章:結婚は、神の業において共に働く関係です。

創世記2章では、これをさらに詳しく説明します。創世記2:15–17は、アダムが神の庭園の王国で、預言者・祭司・王として、神の最終的な支配のもとで治めるように置かれていることを示しています(これは二本の木によって象徴されています:神の支配のもとで生きるための祝福と命の木、神の支配を拒むことによる呪いと死の木)。続く章の部分では、アダムが一人では預言者・祭司・王としての召命を果たすことができないことが詳しく述べられています。彼にはふさわしい助け手が必要であり、そこでエバが与えられ、二人共に働いて神の支配のもとでその名に栄光を帰すという召命を果たすことができるようになっています。

つまり、結婚とは協力関係です。「人がひとりでいるのはよくない。」というのは、ただアダムが孤独だったからではありません。堕落以前であっても、一人では十分に使命を果たせなかったのです。

神が創られた世界では、男一人が神のかたちに従う使命を全うすることはできません。神は、男と女が共にその使命を果たすように創造したのです。独身の男女もそれを果たすことはできます。それは、教会員として、結婚の成就であるキリストと教会の愛の中にあることによってです。

ですから、クリスチャンの結婚において、結婚は福音のための協働関係です。逆に、ノンクリスチャンと結婚することは、その結婚が必ず福音とは別のものを中心とした協働関係になってしまうということです。

クリスチャンはそのような協働関係を選ぶべきでしょうか?

3)創世記3章:結婚は罪によって害される。

創世記3章は、罪が結婚をどのように壊してしまうのかを示しています。アダムとエバは裸で恥じることのない状態から、恥を覚え身を隠そうとすることになりました。

創世記3章の神の呪いで、堕落後の結婚が互いに罪深い意志同士の戦いであることを宣告されました。

「あなたは夫を恋い慕うが、
彼はあなたを支配することに。」(創世記3:16)

つまり、すべての結婚は難しいということです。しかし、クリスチャンの結婚においては、夫婦は互いに、自分の罪深い意志を神の完全な御心に従わせるよう助け合うことができます。ノンクリスチャンと結婚すると、自分の意志をキリストに従わせるように導いてくれる配偶者の祝福を失います。代わりに、自分の意志をキリストに従わせることに関心のない配偶者と共に過ごすことになります。

4)旧約聖書は、信仰を持たない者との結婚に対して警告しています。

創世記の残りの箇所では、神が神の民が主を信じる者とだけ結婚するよう導いていることを示しています。

創世記24章では、アブラハムがどれほどの努力を払い、さらに神が驚くべき祈りの答えを与えられたかを見ることができます。それによって、息子イサクが信仰あるリベカと結婚することが保証されました。

創世記27:46–28:9では、リベカとイサクが、息子のカナン人やヒッタイトの女性との結婚に対して抱いた強い反感が描かれています。これは人種差別ではなく、信仰の問題です。

創世記34:8–9では、ハモルがヤコブの息子たちにシケムの娘たちと結婚するよう誘います。(シケムの町は、ディナに対する扱いによってその性格が明らかになったばかりです)。この町の人々と結婚して交わることは、こうした汚れから離れるのではなく、究極の妥協を意味することになったでしょう。それは、神の民を第一世代のうちに滅ぼすことになったでしょう。

カナン征服において、主は異民族との婚姻を厳しく禁じておられます。

「また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ、こうして主の怒りがあなた方に向かって燃え上がって、あなたをただに根絶やしにするからである。」(申.7:3-4)

この禁止令はヨシュア記23:12でも繰り返されており、カナン人が改宗することは想定されても期待されてもいません。

異民族との結婚は王たちの破滅にもつながります。最も知恵のあるソロモン(列王記上11章)ですら例外ではなく、さらに明らかなのはアハブ(列王記16〜19章)です。より前向きに言えば、神の民にとって悔い改めのしるしは、エズラ記9〜10章で見られる異教徒との結婚をやめることです。一方で、もし異邦人がすでに信仰を持っていたなら、その人と結婚することに関しては全く禁止はありませんでした。実際、これは肯定的な例として見ることができます(ツィポラ、ラハブ、ルツ)。

これらすべての聖書の証拠からすると、『たとえ不信仰者と結婚しても、私はイエスに従い続ける』という考えは、自分の弱さを過小評価し、神の恵みにあぐらをかいた非常に傲慢な立場だと言えます。

5)旧約聖書は、信仰者同士の結婚を美しく描きます。

箴言31章は、若い男性に高貴な性格の女性に目を向けるよう、積極的に呼びかけています。この詩の頂点は30節です。そこには彼女のすべての高貴さの源が示されています:

「麗しさは偽り。美しさは空しい。
しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」

あなたが将来の配偶者に最も惹かれるのは何でしょうか。麗しさでしょうか、美しさでしょうか、それとも主を恐れる心でしょうか。ノンクリスチャンの場合は、最初の二つしかありません。つまり、偽りの麗しさ、空しい美しさだけです。

信者同士の結婚の最も美しい例の一つが、ルツとボアズです。彼は養い、守り、彼女は信頼し、敬虔な行動を取ります。これは素晴らしいラブストーリーです。神の翼の下で守りを求めた女性が、敬虔な男性の愛の中に入っていく美しい物語です。

6)新約聖書の箇所は、不信者との結婚の禁止が残っていることを強く示唆しています。

新約聖書には、旧約聖書のこの禁止が今も有効であることを明確に示すいくつかの言及があります。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。(1コリント7:39)

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。(2コリント6:14)

この2番目の節は結婚について明確に述べているわけではなく、教会は異教徒との交わりを断つべきだという、より一般的な原則を述べているのですが、自分の配偶者との交わり以上に親密な交わりを望む人がいるでしょうか?交わりのない結婚を望む人がいるでしょうか。実際、夫婦関係は必ず「交わり」や「協働関係」になります。しかしそれは福音における協働関係ではなく、結果的に、まさに第二コリント6:14が警告する通り、信者をからめ取るものとなります。

1コリント9:5「私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」

つまり、不信仰な妻を持つことは、少なくともミニストリーに携わる者にはふさわしくない、ということです。もし教会の長老になろうと考えたことがあるなら、それは資格を失うことになります。

不信者との結婚禁止について新約聖書での根拠を求める人は、これらの聖句を見つけることになるでしょう。同時に、新約の信者に対して、旧約の異邦人との結婚禁止が解除されていることを示唆する聖句は、ひとつも見つからないでしょう。

7)新約聖書に示される、より明確で理想的な結婚像

新約聖書はさらに結婚のより明確な啓示を示します。それは、キリストが教会に示す贖いの愛を象徴する関係なのです。結婚の最大の目的は、福音を表すことにあります(エペソ5:21–33、ヨハネの黙示録21:9–27)。さらに、結婚は父と子の関係そのものをも象徴しています(第一コリント11:3)。

信者でない人と結婚するのは、2人の画家が同じキャンバスに2つの異なる絵を描こうとするようなものです。あなたはイエスと教会の絵を描こうとしているのに、配偶者はまったく別のものを描こうとしているのです。

音楽の例えで言えば、一方がある曲を歌おうとしているのに、もう一方がまったく別の曲を歌おうとしているような協力関係になります。あなたは「この歌はイエスについての歌にしたい」と歌い、配偶者は「これは僕たち二人の歌だ」と歌う、という状態です。そこに究極の調和は生まれません。

信者がノンクリスチャンと結婚している場合――以前の不従順の結果としてであれ、自分自身の回心の後であれ、あるいは結婚後に配偶者が背教した結果であれ――それは痛ましく、不協和音に満ちた歌ですが、最終的には神の栄光をあらわす歌として歌わなければならないものです。しかし、それは結婚が本来意図された歌ではなく、クリスチャンは意図的に奏でようとすべき歌でもありません。

信者の人生の目的は何でしょうか?イエスはヨハネ17:3でこう言います、「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

信者の人生の目的は、神の御子イエス・キリストを通して神を知り、その知ることの中で、愛し、敬い、礼拝し、従うことです。

配偶者がいなくても、教会の交わりの中で生きるほうが、永遠ではない価値のために生きている人と一緒にいるよりも、はるかにまさっています。