信仰とは何ではなく、何であるか

この記事は、信仰には行いが伴うこと、信仰の対象が自分自身や伝統ではなく神とキリストであること、そして真の信仰には悔い改めによる方向転換が伴うことを示し、聖書的でない偽りの信仰を見分ける5つの基準を提示している。

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人々が聖書的でない方法で信仰を追求するとき、偽の改宗者が生まれ、イエスに従うとはどういうことなのか、世間は惑わされます。従って、牧師は偽りの信仰に目を光らせ、偽りと真実を分ける必要があります:

1.真の信仰は行いのないものではなく、行いに現れるものである。

ヤコブは、信仰と行いとの関係を問うことによって、どのような信仰が救いの信仰なのかを問いています。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」(ヤコブ2:19)。 この箇所によれば、真理を知っているだけでは十分ではありません。真理を知っていても、欺かれていることはあり得ます。ですので、単なる知識は、本当の救いの信仰とは一致しません。むしろ、真の信仰は行いに現れます。

2.それは自分自身への信仰ではなく、神への信仰である。

キリスト教書店に行けば、自己啓発的なアドバイスが書かれたベストセラーのキリスト教書が並んでいます。今日の西洋人は、自身に内在する神の話が大好きです。しかし、私たちは自分自身を救うことはできません:「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです」(エペソ2:4-5)。自分自身に従うこと、自分自身を信じることは、永遠の命をもたらすのではなく、永遠の死をもたらします。

3.伝統への信仰ではなく、キリストへの信仰である。

クリスチャン家系で育ったからといって救われるわけではありません。救われた祖父母がいるから救われるのではありません。パウロは伝統や血筋に信仰を置く理由が誰よりもありました:「八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人」と並べます(ピリピ3:4-11)。ですが、これらは全て損であると結論を下します。伝統や血筋[heritage]は私たちを救いません。キリストが救うのです。

4.それは信仰への信仰ではなく、キリストの完成された御業に対する信仰である。

今日、いわゆるクリスチャンのテレビやラジオ番組の多くは、人々の「耳に心地よい」もの、つまり地上の利益への約束に迎合しています。私たちは何度も何度も、「イエスに立ち返った」ビジネスマンが事業を倍増させたという証しを耳にします。「もし、あなたがこれらのものを持っていないのなら、あなたが十分に信じていないからだ」と言われます。「だから、もっと強く信じなさい!」と言われます。ここで、二つの問題に気づきましょう。(キリストではなく、)物が目的であり、(キリストに目を向けるのではなく)内側に目を向けることが手段なのです。悲しいことに、人々は十字架上で完成したキリストの御業から目を離し、自分自身に目を向けてしまいます。しかし、真の信仰は自分自身に目を向けるのではなく、キリストに目を向けるのです。神がキリストを死から蘇らせたので、神に受け入れられたいけにえだと確信できる、そのキリストの十字架上の御業に目を向けるのです。

5.悔い改めを怠ることなく、方向を変えるものである。

悔い改めがなければ、信仰は本物ではないし、救われるものでもありません。イエスを信じていると言いながら、人生に何の変化もない人はたくさんいます。彼らは古い生き方を捨てることを拒みます。悔い改めとは、ただ罪を悔やむことではありません。誰でも罪に罪悪感を感じることはできます。真の悔い改めは悲しみから始まり、赦しを求め、そして方向転換に至ります。その人は振り返って別の道を歩き始めます。

本当の、救いに至る信仰とは、罪の赦しと神との永遠の命のために、イエス・キリストを生きておられる方として信頼し、悔い改めることです。

それはキリストへの全面的な信頼なのです。キリストがその対象なのです。

それは委ねる道であり、それが生み出す本物の実によって真実であることが証明されます。