賛美だけではない!:礼拝のあらゆる要素において信徒がどのように役割を果たすのか

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私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。(第一テモテ3:14-15)

月曜日の朝、クリスチャンの同僚アンドリューと会話をしたとしましょう。教会の話題になり、「アンドリュー、あなたは自分の教会のどこが好きですか?」と聞きます。

「私の教会には素晴らしい子供向けプログラムがあるんです」と彼は答えます。「メッセージはいつも励みになりますし、礼拝も大好きです」と。

そして、「礼拝のどこが好きなのですか?」と彼に尋ねます。

「それはそれは」と彼は言います。「素晴らしいワーシップ・バンドがいるんです。とても才能があり、どんなスタイルの曲も演奏できるんです。賛美歌も現代的なワーシップも両方演奏します。それぞれの礼拝もあり、教会員は自分が好きな賛美によって礼拝を選ぶことができます。私としては、現代的な礼拝の方が好きです。ワーシップは礼拝的な気分にさせてくれるんです。賛美リーダーがジュリアード音楽院の卒業生で、有名なバンドとツアーをしたことを知っていますか」と話しが続きます。

アンドリューの答えには、注目すべき点がたくさんあります。ひとつだけ強調しておきたいのは、礼拝について尋ねられたとき、彼は音楽についてしか語らなかったということです。

アンドリューは変わっているのでしょうか。

恐らくそんなことはありません。私の推測では、ほとんどの福音主義者は礼拝について、単に音楽だけを思い浮かべると思います。この言葉は同義ではありませんが、近いです。教会でこんな話を聞いたことがあるでしょう:「礼拝の時間に戻る前に、祈りを捧げます」。その15分後、牧師が30分のメッセージを語り、(ご想像のとおり)礼拝 が「その後に」続きます。なぜ私たちの多くは、礼拝を音楽的な部分だけに限定したがるのでしょうか?

おそらく主な理由はこれです。 私たちが礼拝と音楽を同一視しているのは、歌うことが実際に礼拝に会衆が参加する唯一の方法だと考えるように訓練されているからです。

しかし、聖書は明確です。会衆礼拝は音楽以上のものです。実際、キリスト教の礼拝のすべての要素は、会衆全体の積極的な参加を伴います。

礼拝のすべての要素における全教会員の役割

会衆礼拝を理解するためには、まず教会とは何かを理解する必要があります。使徒ペテロは教会についてこう言っています:「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります 」(第一ペテロ2:5)。

ペテロによれば、キリスト者は石なのです。それらが一体となって、地域教会と呼ばれる霊的な家を形成しています。教会がイエスの御名によって集まるたびに、人々は賛美の住処を形成します。神に栄光を与えることが唯一の目的である歓喜の環境です。

このような教会のビジョンは、会衆礼拝における一方向のみのパフォーマンスへの欲求を打ち砕くはずです。教会のあり方にとってすべての教会員が不可欠であり、教会生活にとって会衆礼拝が不可欠であるなら、会衆礼拝にとってもすべての教会員が不可欠です。信徒団は

決して傍観者ではなく、熱心で積極的な参加者なのです。

会衆礼拝のさまざまな要素における会衆の役割を検証してみましょう。

賛美における会衆の役割

歌は直感的に参加するものであると多くの方が認識しています。それにもかかわらず、悲しいことですが、多くのクリスチャンは歌うことを控えてしまいます。もしかしたら、歌が気に入らないのかもしれないし、自分は歌が下手だと思っているのかもしれません。そのようなクリスチャンは、聖書の中で歌うことについて言及されている400以上の聖書箇所を読むといいでしょう。これには、歌うことへの直接的な命令が50含まれています。聖書の中で最大の書物であり、新約聖書の中で最も引用されているのが詩篇です。それは本質的に讃美歌集であります。神にとって、神の民が、その一人一人が神を賛美することが最も重要であることは明らかです。

使徒パウロは、コロサイ3章で、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」と言っています(3:16)。新約聖書の礼拝で言及されている唯一の楽器は人間の声です。これは重要なことです。キリストの血で買われた訓練を受けていない聖徒たちの聖歌隊で、地域教会の音楽ミニストリーが構成されることは、神のご計画なのです。

祈りにおける会衆の役割

新約聖書を一目すれば、礼拝の集会において祈りが優先されることがわかります(使徒4:23-31、第一コリント11章、第一テモテ2章)。教会が声を合わせて祈るのを読みますし、個人が会衆を率いて祈ることも読みます。そして、このすべてのことを、からだ全体を啓発し、建て上げるために行うべきなのです(第一コリント14章)。

告白の祈り、感謝の祈り、牧会祈祷を捧げるために会衆の前に立つとき、個人的な霊的パフォーマンスであってはなりません。それは神への会衆の叫びです。クリスチャンはただ祈りを聞くだけでなく、祈りに導かれるのです。会衆礼拝で誰かが祈りに導くとき、その人は会衆の代弁者として語ります。だからこそ、その言葉はすべての聖徒の注目と「アーメン」を必要としているのです。

聖書朗読における会衆の役割

パウロはテモテに、聖書の朗読に専念するよう命じました(第一テモテ4:13)。これは空虚な行動ではありませんでした。パウロは、能動的に『聞く』ということが、会衆の心に真理を植え付ける主要な手段の一つであると知っていました。識字能力の高い現代において、初期の信徒たちが聖書を学ぶ際、主に公同的な集会の中で暗記した箇所を黙想していたことを忘れかねません。

クリスチャンとして、私たちは神のみことばが読まれるたびに畏敬の念を抱くのがよいでしょう。ダビデが詩篇19篇で言っているような姿勢を私たちもとるべきです:聖書は「金よりも 多くの純金よりも慕わしく  蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い」。

説教における会衆の役割(はい! 説教にも役割があります!)

少なくとも、会衆は説教においては受け身的な役割を担っているんですよね?違います。

説教は会衆礼拝の能動的な要素です。ジョン・パイパーが説教を 「講解的歓喜」と正しく定義しています。ペテロは説教者たちに、「神のことば[λόγια]として語りなさい」(第一ペテロ4:11[翻訳者による訳])と勧めています。つまり、真の説教を人々が聞くとき、神と関わっているのです。説教者の任務は、会衆と主との交わりを促進することです。真の説教は、聞く者が全能者と有意義な交わりを持てるように、キリストを重視するものです。このように、説教者は信者が神を見るための道具にすぎません。

ネヘミヤ記8章では、神の民が何年にもわたって反抗し、聖書を軽視してきた後に、神のみことばに再び献身します。エズラたちが聖書を講解した後、ネヘミヤ8:6には、「エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら『アーメン、アーメン』と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した」。

聖書が講解される中で、主とどのように民が積極的に交流していたかに注目してほしいです。そして、これは礼拝であると説明されました。これが礼拝ではないと言われるわけはありません。人々は神と出会っていたのです。この聖書箇所について、チャールズ・シメオン(1759-1836)はこう主張しています:

被造物に目を向けることはなく、その声を聞き、語られるすべての言葉においてその権威を認めた神に目を向けました。私たちの間での神のみことばが聞かれる方法とは、なんと対照的なことでしょう!神のみこころの啓示をくださった神への義務感を、相応しく感じている人はめったにいません!今日、説教者を通して神に目を向け、神のしもべの声によって神の語りかけを聞くことは、どれほど稀なことでしょう。

「説教者を通して神に目を向け」という言葉を考えてみてください。今度、説教を聞くときに、このことを考えてみましょう。説教が聖書に忠実である限り、あなたは生ける神と交わる経験をしているのです。

洗礼と聖餐式における会衆の役割

聖餐式における会衆の役割は非常に大きいです。しかし、洗礼に関してはおそらくその役目は明らかではありません。クリスチャンは、洗礼とは単に新しい信者が信仰を表明すること、つまりキリストへの忠誠を表明する個人的な決断のことだと考えがちです。それは確かに必要な要素の一つです。しかし、それは物語の一部に過ぎません。

バプテスマにおいて、信者はキリストとの結合とキリストの教会との結合の両方を宣言します。言い換えれば、バプテスマは、地域教会の正式な会員になるための入り口であると理解するのが最も適切です。新約聖書には、地域の信徒団に属していないクリスチャンというカテゴリーはありません。つまり、会衆が洗礼式に証人として立ち会うときには、その新しいクリスチャンを正式に家族の一員として迎え入れるということなのです。教会全体が神のいつくしみを祝う、愉しい時間であるべきです。

同様に、私たちが聖餐式に与るとき、クリスチャンはキリストと交わります。しかし、聖餐式は、私たちが互いの絆と交わりを認め合う家族の食事であることを決して忘れてはいけません。交わりの 「他人」と「自分」が 「私たち」[we]になります。他人が十字架上で自分のためにしてくださったことは、私たちがともに分かち合う交わりを買い取ってくださったということです。

適応

会衆は日曜の朝の集いのあらゆる要素において役割を担っています。繰り返しますが、会衆は傍観者ではありません。これを踏まえて、3つの適応を考えてみましょう。

1.会衆礼拝をする前に、会衆礼拝について考えて準備しましょう。

私が牧会している教会では、礼拝プログラムを記した週報を使っています。集いの始まる前に週報を個人的に読むことを長い間、習慣にしています。これは礼拝のために心を整えるのに役立っています。

あなたの教会に週報があるかどうかにかかわらず、日曜日には早めに到着することをお勧めします。その時に、あなたの教会の礼拝のさまざまな要素について考えてみましょう。そして、「今朝はどのようにそれらに参加するのか」を考えてください。歌の中での私の役割は何でしょう?告白の祈りの中での役割は何でしょう?聖書朗読の中での役割は何でしょう?説教での役割は何でしょう?

礼拝の要素の意味を考えずに、流れに身を任せてはいけません。

2.礼拝の最中に他の人を見ましょう。

私は時折、教会で賛美リードをする機会に恵まれます。何百人もの聖徒たちと向き合って歌うことは、リードする中でこの上ない喜びのひとつです。残念ながら、一般的な教会員はこのことを経験できないことが多いです。というのも、私たちの礼拝堂は前で起こっていることを強調するように設計されているからです。とはいえ、私は教会員に、礼拝中、互いを見回すよう勧めています。

覚えておいてください。キリストのみことばを豊かに心に宿らせる方法の一つは、詩篇、賛美歌、霊の歌で互いに励まし合うことです。つまり、私が歌で神を礼拝するとき、私は神に歌っているだけではなく、隣にいる聖徒に神のすばらしさとその約束の美しさを思い起こさせているのです。

3.あなたの集いの上に神の祝福があるように祈りましょう。

あなたが地域教会の教会員なら、あなたの教会が日曜日に集まるときに起こっていることがあなたの人生で最も重要なことです。

会衆礼拝は、あなたの人生のあらゆる流路を流れる急流です。ですから、あなたの教会の集まりを大いに祝福してくださるよう、神に嘆願することを優先してください。神はすでにその集う民に特別な約束をしました:復活したキリストがあなたたちの中にいるのです!心全てで、神の豊かな恵みを会衆礼拝の中で求め、期待しましょう。