聖書は教会に通うことについて何と言っているでしょうか?

約12-15分
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教会
日曜礼拝

次のような言葉を耳にしたことや、おそらく口にしたこともあるでしょう:「私たちは教会に行くのではなく、私たちが教会なのです。」「私には神様との関係がありますから、施設や建物は必要ありません。」「教会に通うことは、人間が作りあげた、アメリカ的で、近代になって始めた行為なのです。」神様は私たちが神様や他者とつながることを望んでおられます。「私は違う形で「教会をする」のです」:食事をしたり、自然の中であったり、人に仕えることを通してであったり、これこそが私の教会なのです。

クリスチャンだと言いながらも教会に全く行かない人もいます。そのような人々は聖書が私たちに教会に行くように指示しているとは確信していません。彼らは正しいのでしょうか?聖書は教会に行くことについて何か言っているでしょうか?その質問に対する7つの異なる答えを探ってみましょう。

#1.神は長い間、ご自分の民に毎週集まるように命じてきました

教会に行くという発想はどこから生まれたのでしょうか?代表的な犯人として考えられるのは、コンスタンティヌス、アメリカのビジネス形態、老人、仕事がなくて困っている牧師などです。しかし、本当は誰の考えなのでしょうか?

神様はこう言っています:

「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。 六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である」(レビ23:2-3)。

集まることは人間が作り出した概念ではありません。神ご自身が週に一度、神聖な礼拝のために民を集めました。

#2.神の民は歌、教え、祈りのために毎週集まりました

時々、「教会」は重要であるが、それは様々な活動を含んでいたと言う人がいます。神とのつながりは、組織的な集まりを通して起こる必要はないのだから、自分にあったものを見つければ良いと言います。

これは、ご自身の民が教会として集まるとき行うようにと、神様が民に与えた礼拝の具体的な事柄が確かに存在する、という事実を見逃しています。

都上りの詩篇(120-134篇)は、民をエルサレムでの礼拝に備えさせるために書かれました。詩篇122篇によれば、彼らは特定の場所に行き(1節)、賛美と感謝をささげ(4節)、祈り(6a節)、祝祷を受けました(6-7節)。こうした慣行は会堂でも続いていました。

「教会をする」ということは、単に霊的に自分に合うものを見つけることではありません。神様は、ご自分が定められた礼拝式を通して、私たち自身の必要と願望に対する理解を変えようとしておられます。

#3. 初代教会は集まっていました

「まあ、それは旧約聖書だけですよね」と思う人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。キリスト教に改宗した最初のユダヤ人たちは、その礼拝を変容させられましたが、廃止されたわけではありませんでした。

教会が始まると、彼らは「使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)。

「パンを裂き、祈りをしていた」とは、週末に友人たちが一緒にのんびりして食事の前に祈ることを指しているのではありません。それは正式な礼拝の集まりのことを示しています。

福音が広まるにつれて、クリスチャンは地域の教会を組織し、受け継がれてきた礼拝の集まりを継続しました。ヤコブはこのような時に生じる可能性がある誘惑について警告しました:「あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って」きた時(ヤコブ2:1-4、参照。ローマ16:5、1コリント16:19、コロサイ4:15、ピレモン2)。

カジュアルな遊びではなく、定期的な集会が行われているというのが前提です。ギリシャ語の 「集会 」は通常 "会堂 "と訳されます。ヤコブは正式な礼拝の集会のことを語っているのです。初代のクリスチャンは、教会であることは教会に行くことであると私たちに示しています。

#4. 特定の活動のために初代教会は集まりました

クリスチャンが一緒に時間を過ごすことには良いこともたくさんありますが、それをしたからといって「教会 」であるわけではありません。クリスチャンが共にキャンプに行ったり、困っている人に奉仕したり、食事をしたり、コーヒーを飲みながら神について話したりするのは「教会」ではありません。それは良いことです。しかし教会ではありません。

初代教会の礼拝の慣習には、ここで取り上げたものと同じ活動が含まれています。すなわち、みことばの教え、歌、祈り、感謝(コロサイ3:15-16)が含まれており、さらに聖餐式(1コリント11:18-21)が加えられていました。

#5. クリスチャンは一週間の一日目に集まりました

イエスの復活を理由に、教会は日曜日を聖なる集会の日としました。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた」とルカは記録しています(使徒20:7、参照。1コリント16:1-2)。

聖書ではないが、1世紀に書かれた最古のキリスト教文書のひとつである『ディダケー』に、教会の礼拝のあり方が規定されています:「主日ごとに集まりなさい。パンを裂き、罪を告白してから感謝をささげなさい。その捧げ物が純正なものになるためです。」

日曜日に教会に行くことは近代になって始めたことではありません。クリスチャンはどんな曜日にでも気軽に集まって「生活していた」わけではありません。彼らは日曜日に集まることに決めていたのです。

#6. 長老たちに指導させる命令と説教をさせる命令は、集会を仮定としています

スマートフォンを通して、私たちは簡単に友人とつながり、世界の最高の説教者、何千もの賛美歌、さらには神学校教育にさえアクセスできます。私たちは自身の信仰体験を築くことができてしまいます。

しかし、聖書は違う絵を描いています。クリスチャンには長老が必要であり(1テモ3:1)、彼らは教会が成熟していることを確認する責任があり(1テモ3:14-15)、その多くは説教を通してもたらされると言われています。パウロはテモテに「あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。 あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」(1テモテ4:11-13;参照。テトス2:1、2:15、2テモテ4:1-2)と言いました。

神は別の方法を計画することもできたはずです。個々のクリスチャンに聖書を読むように指示したり、メンターを見つけることを勧めることもできたはずです。友人を作り、オープンで正直であれと、そして私たちに真実を話す許可を彼らに与えよと私たちに命じることもできたはずです。しかし、神は私たちが独自に取りまとめた資料やコミュニティー以上のものを必要としていることを知っておられます。主は、聖書的な資質を持ち合わせ、任命された、私たちのために責任を負う、権威ある指導者が必要であり、そのような指導者が説教と教えを私たちの人生に注ぐべきことを知っておられます。それに代わるものはありません。

#7. 集まらないことへの誘惑が聖書中で対処されています

教会に行くのが単に難しくなってしまった人もいます。何か(引っ越し、子供のスポーツ、家事など)がその習慣を止めた、あるいは生活が忙しくなったのでしょう。

ヘブル人への手紙は、忍耐することに苦しんでいたクリスチャンに向けて書かれました。彼らの最大の誘惑のひとつが、集まることを諦めることであったのは、私たちに教訓を与えます。集まることは止めてはいけないと著者は言います:「また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブル10:24-25)。

ただ、お互いの家に夕食を食べに行くのをやめたとか、一緒に公園に行くのをやめたなどと著者は意味していたのでしょうか?そうではありません!この章全体は、公的な礼拝について書かれています。例えば、神殿で捧げられる犠牲と供え物、祭司の務め、聖所への入場などです。これらの活動はすべて、イエスによって成就され、より良いものに変えられました。これらがさらに、集まることを怠らないようにする理由になります。

神は、私たちが忠実であり続け、用意されているすべてのことを経験するためには、教会に行くことを怠ってはならないと知っておられるのです。

まとめ

私たちは教会であるから、教会に行くのです。教会という言葉の意味は「集会」です。神はこれまでも、そして今も、時空を超えてあらゆる国からご自分の民を集めておられます。しかし、ただ抽象的に彼らを集めているのではありません。主は私たちに必要だと知っており、契約の更新、聖書的な長老たちによる説教、具体的な礼拝の実践を与えてくださいました。そして、毎週、物理的な礼拝をする実際の場所に彼らを集めておられるのです。

神は、あなたのクリスチャンとしての人生の最も基本的な側面のひとつとするように教会を定められました。神を知り、神を喜び、神を讃えるという、神があなたに用意してくださるすべてのことを経験したいのであれば、地域教会への深い傾倒とつながりを抜きにしては、それを期待することはできません。

教会であることにとどまってはいけません。教会に行きましょう。これは神様のアイデアであり、神様の計画であり、神様からの贈り物なのです。