要約:ディスペンセーション主義か契約神学か?教会が初期から、クリスチャンは聖書の契約同士をどのように結びつけるのが最善なのかをめぐって葛藤してきました。最近では、2つの大きな伝統が教会の契約思考を支配してきました。キリスト教神学において 「契約をまとめ」ようとするとき、私たちは、キリストにおいて成就された神の複数の契約を正当に評価し、将来の契約の基礎となる暗黙の創造の契約を仮定し、神の新しい契約の民の新しさを真剣に考慮する必要があります。天地創造から十字架に至るまで、神は贖罪の計画を契約ごとに成し遂げ、キリストにおいて批准されたより偉大な新しい契約を段階的に明らかにしています。
牧師やクリスチャン・リーダー向けの特集記事シリーズとして、南部バプテスト神学校でキリスト教神学を教えるスティーブン・J・ウェルム教授(PhD、Trinity Evangelical Divinity School)に、クリスチャンが聖書の契約をどのように考えるのが最善なのかを探ってもらいました。
私たちの主イエス・キリストを中心とする聖書の贖罪の物語にとって、契約が不可欠であることは、すべてのクリスチャンが同意するところですが、それぞれの契約間の関係については意見が分かれます。これは新しい議論ではありません。初代教会において、使徒たちはキリストの新しい契約の働きの意味合いと格闘しました。実際、初代教会の苦闘の多くを、契約についての議論として捉えなければ正しく評価できません。例えば、エルサレム公会議が開かれた理由は、契約上の論争(使徒15章)、特にユダヤ人と異邦人の関係(使徒10-11、エペソ2:11-22、3:1-13)やユダヤ主義者との神学的な相違(ガラテヤ3-4章)にありました。
キリスト教徒は、聖書の物語がアダムからアブラハム、シナイ、キリストへと進むという点では今日、基本的な合意を共有しています。しかし、契約をどのようにまとめるかについては、いまだに意見が分かれています。1こうした相違は、キリストが成し遂げたことの新しさ、十戒と安息日の律法が教会にどのように適用されるか、旧約聖書の約束がキリストと教会においてどのように成就されるか(より大きなイスラエルと教会の関係に関連する問題)など、他の重要な神学的問題にも影響を及ぼしています。このような相違が表面化すると、契約のまとめ方に関して、まだ大きな意見の相違があることがわかります。
この記事では、契約をどのようにまとめるかを取り上げ、次の3つの質問に答えます:(1)なぜ意見が分かれるのか、(2) 意見の相違をどう解決できるのか、(3)聖書の情報や強調点を最も歪めない方法で、どのように契約を考えることができるのか。
聖書の完全な権威を肯定する私たちは、なぜ重要な真理について意見が分かれるのでしょうか?その答えは複雑で多面的です。まず第一に、神学的見解は単に1つか2つの聖書箇所に由来するものではありません。むしろ、聖書箇所がその文脈の中でどのように解釈され、他の聖書箇所とどのように関連し、聖書全体の観点からどのように読まれるかを議論して見解はできます。
さらに言うと、それぞれの見解は歴史神学や伝統と結びついています。私たちは白紙の状態で聖書に近づくのではなく、伝統や神学的遺産に育まれています。これらは神学的結論を導き出す方法に影響を与えます。福音主義神学の中では、契約についての考え方を支配する2つの大きな伝統がしばしばあります:ディスペンセーション主義と契約神学です。
ディスペンセーション主義は19世紀のイギリスで始まり、さまざまな改正を経てきました。そのすべての形態に特徴的なことは、イスラエルと教会の区別であり、特有な契約の理解に依存しています。ディスペンセーション主義者にとって、イスラエルとは民族的、国家的な民のことであり、教会は神の計画における終末論的イスラエルに変わるものでは決してありません。異邦人の救いは、民族イスラエルに約束され、現在教会で実現されている約束の成就の一部ではありません。むしろ、神はキリストの支配下における約束の地の所有を、民族イスラエルに最初はアブラハム契約で、その後預言者たちによって再確認されながら約束されました。そしてキリストの千年王国以前の再臨と永遠の状態での、これらのことの成就を待ち望んでいます。
教会は、神の計画の中で明らかに新しいものであり、イスラエルとは本質的に異なるのです。教会は現在、信じるユダヤ人と異邦人で構成されていますが、イスラエルに約束された霊的祝福だけを受け取っている状態なのです。将来、キリストは贖われた国々を支配するのであって、現在の形においての教会を支配するわけではありません。教会はキリストにおいて、神様の約束のすべてを同等に、完全に、永遠に受けるわけではありません。現在教会を構成している信仰を持つユダヤ人と異邦人は、贖われたイスラエル民族の者に加わり、異邦人諸国とともに、それぞれの国とそれぞれに与えられた具体的な約束に従って、キリストの支配下に生きることになります。ディスペンセーション主義はまた、教会が新生を経験したコミュニティーであると教えており、洗礼のしるしはキリストへの信仰を公言する者のみに適用されると教えています。
契約神学は、宗教改革と宗教改革後の時代に正式に始まり、ウェストミンスター信仰告白やその他の改革派の信仰告白が最も良く表しています。歴史における神のご計画を、神様の人間と結ぶ契約の関係によって整理したものです。一枚岩ではないが、契約神学を支持する人々は、一般的に3つの契約を主張します。すなわち、三位一体内の贖いの契約、人類の代表であったアダムと結ばれた一時的なわざの契約(悲劇的なことにアダムはこれを破って、罪と死をもたらしたのですが)、そして神の民の救いのためにキリストにおいて結ばれた、恵みの契約です。
契約神学は契約の多様性を認めながらも、堕落後のすべての契約を恵みの契約という包括的なカテゴリーに包含します。その結果、イスラエルと教会の関係は継続性という観点から見られます。この2つは本質的に同じものでありながら、異なる形で管理されているということです。このため、イスラエルと教会は混ざった民(選民と非選民)として構成され、それぞれの契約のしるし(割礼とバプテスマ)は同じ霊的現実を意味します。ですので、教会内の幼児にも洗礼を授けます。
神学的伝統に照らされて聖書を読む傾向を考えれば、契約について意見が分かれていることに驚かないはずです。では、どうすれば意見の相違を解消できるのでしょうか?
単純に聞こえるかもしれませんが、私たちは聖書に立ち返ることで意見の相違を解決します。私たちの意見の相違を解決するのは簡単なことではありません。自分の考えを見つめ直す必要があります。しかし、「Sola Scriptura」聖書のみであることを考えれば、聖書は常に私たちの伝統を確認し、修正することができます。契約に関する意見の相違を解決する方法はこれです:私たちの契約のまとめ方は、契約に関する聖書自身の天地創造からキリストまでの自己表現に忠実なのでしょうか?このことは解釈論的に、聖書自身の表現、あるいは聖書自身の基準について語ることとは何か、という質問をあげることになります。私の簡潔な答えは、聖書とはその自己基準の中で何であると言っているのかを3つの真理で記すことです。正しく契約を理解するためにいずれも大事なことです。
第一に、聖書は神様のことばであり、人間の著者によって書かれ、キリストを中心とする神の永遠の計画を展開しています(第二テモテ3:15-17、第二ペテロ1:20-21、ルカ24:25-27、ヘブル1:1-3)。聖書の内容は多岐ですが、神のことばであるがゆえに、聖書は全体的な統一性と一貫性を示しています。さらに、聖書は人間の著者を通して与えられた神のことばですから、人間の著者が書いた文章や意図から離れて、神が何を語っているのかを知ることはできません。そして、神が時を越えて複数の著者を通して語られましたから、神の目的と計画を理解するためには、慎重な文脈間の読解と正典的な読解が必要となります。聖書は一度に与えられたわけではありません。神のご計画が展開するにつれ、より多くの啓示が与えられました。先の啓示の上に後の啓示が積み重ねられていき、それぞれが全体とどういう関係であるかを発見することでより深い理解がもたらされます。契約に関する最良の見解は、すべての契約が互いにどのように自然と関わっているのか、それぞれの契約がどのように預言的にキリストと新しい契約を指し示しているのかを説明します。
第二に、第一の点を踏まえれば、聖書は時間をかけて書かれた神のことばであるだけでなく、啓示の展開は、契約の漸進的展開によって大きく区分されます。正典を理解するためには、契約を通して明らかにされた神が展開する計画を注意深くたどる必要があります。聖書のそれぞれの書の釈義は正典を贖罪的・歴史的展開に準じてしなければいけません。契約に関する最善の見解は契約を通じた神のご計画の展開性を考慮し、天地創造に始まりキリストと新しい契約に至るまでの漸進を良く説明したものです。
第三に、漸進的啓示を考えると、聖書と契約は3つの展開されている文脈(背景)に従ってまとめられなければなりません。第一の文脈は、どの本にもあるその直接的な文脈です。第二の文脈は、神の展開する計画の中にこの書物を位置づけます。書物は先行したものの背景に根付いているからです。第三の文脈は正典的な文脈です。テキスト(と契約)を神の展開する計画の中に位置づけることで、私たちは以前の啓示と後の啓示の間の文脈的なつながりを発見します。後の著者が以前の文書(および契約)を言及するとき、より深い理解という意味でも、また予型的な関係(神が与えた以前と以後の人物、出来事、制度間におけるパターン)を特定するという意味でも、それらを土台とします。これらのパターンは、神が契約を通してご自身の計画を展開し、キリストと新しい契約においてその成就に達するための重要な方法なのです。ですから、神学的な結論は契約の体系化も含めて、正典に照らされてなされます。契約の最良の見解は、それぞれの契約が、天地創造に始まりキリストにおいて成就する神の計画にどのように貢献するかを考慮するものです。
より「優れた」方法を求めることは、他の見解の正統性を疑うことではありません。違いはあっても、不一致よりも一致の方が遥かに多いです。特にキリスト教神学の中心的な真理に関して一致しています。むしろ、「より優れた」方法について語ることは、主要な2つの伝統が契約をまとめる上で足りないことがあり、その結果、私たちの間に様々な神学的相違が生じていると主張することです。本記事では、私の主張を詳しく擁護することはできません。2その代わりに、聖書が契約について説明していることについて、私たちがより適切な説明を必要とする3つの理由を述べるにとどめます。
第一に、契約神学が主張するように、契約は神がその救済計画を展開する中心的な方法です。しかし聖書は、歴史を二つの歴史的な契約に分けて、すなわちわざの契約(条件付きの「律法」の契約)と恵みの契約(無条件の「福音」の契約)に分けて、さらに堕落後のすべての契約(ノアの契約、アブラハムの契約、モーセの契約、ダビデの契約、新しい契約)を恵みの契約という大きな範疇に収めるのではありません。むしろ、神の計画と約束を、複数の契約を通して段階的に啓示され、達成されるものとして描いています(エペソ2:12)。それぞれの契約はキリストと新しい契約において成就します。この体型化によって、聖書の各契約が、すべての契約を一つの契約に包含することなく、神の統一された計画にどのように寄与しているかをよりよく説明します。また、神の約束がすべてキリストにおいて成就し(ヘブル1:1-3、エペソ1:9-10)、新しい契約の新しさを強調するとともに、教会に適用されることをよりよく説明しています。
神の計画と約束は、複数の契約を通して段階的に明らかにされ、達成されます。
この体型化の方が優れているのは、契約をまず神学的な区分ではなく、聖書的な区分で説明するためであり、そのため聖書の契約の表現と一致します。結局のところ、恵みの契約には具体的な聖書箇所の根拠はありません;どちらかと言えば神学的な区分なのです。神学的な区分は結構ですが、それは聖書に忠実でなければなりません。これとは対照的に、複数の契約を通して神の計画が明かされたことは、聖書的に多くの根拠があります(例えば、エペソ2:12、ローマ9:4参照)。間違いなく、契約神学の二契約構造は、「律法」と「福音」という神学的分類を根拠づけるものであり、人類の二人の契約のかしらをよく浮き彫りにしています:アダムとキリストです。しかし、こうした神学的真理を根拠づける唯一の方法はこれではありません。契約神学の第一の弱点は、聖書とは異質な契約的構造によってこれらの真理を根拠づけていることです。
さらに、(契約神学が主張するように)創世記2:15-17と創世記3:15の2つの異なる契約が創世記1-3で批准されている根拠はほとんどありません。むしろ、アダムの罪と反逆にもかかわらず、人間に対する神の目的は守られ、人間の内からアダムがしたことを元に戻す贖い主を神様が恵み深く与えてくださるという、堕落後の神の恵み深い約束として創世記3:15を見る方がよい。このように、創世記3:15から、そして契約を通して、私たちは新しい契約に関する啓示の展開を見るのです。
さらに、聖書を注意深く読む人は、契約神学にありがちなように、契約を条件付き/双務的(律法)、無条件/一方的(福音)のどちらかに分類することは避けたいと思うでしょう。むしろ聖書は、それぞれの契約に両方の要素が含まれ、堕落の前と後の創造における契約は明確に区別されていると教えています。このように、堕落の前にアダムに要求されたことは、堕落後の神の贖いの約束と混同されることはなく、創世記3:15のキリスト論的約束は、契約全体にわたって解き明かされ、贖いは常にキリストのみにあることを明らかにします。実にこの二つの要素の混ざり合いが、聖書の契約の物語で意図的に高まっていく緊張感を説明する理由です。神様の計画が展開するにつれて高まり、キリストが私たちのために完全に従順な生と死を遂げることによってのみ解決されます。
一方では、契約は私たちの三位一体の神を明らかにするものであり、神は約束を語り、かつ、守られます。神が被造物と契約を結ぶとき、神は常に忠実な当事者です(ヘブル6:17-18)。私たちが不誠実であったとしても、創世記3:15節から始まる神の約束は確かなものです。しかし、神様は私たちに完全な従順を要求します。これが契約の双務的な側面を説明しています。しかし、契約が進むにつれて、約束に対する神の誠実さと私たちの不従順との間に緊張が高まっていきます。神様は聖なる義なるお方であり、私たちは神に対して罪を犯しました。そして創世記3:15により、神の約束は、アダムの悲惨な選択を取り消す従順な息子の供給と結びついています。しかし、神に完全に従うそのような息子/種はどこにいるのでしょうか。私たちの罪が取り除かれない限り、神様はどうやって私たちと関係を維持するのでしょうか。この緊張が高まるのは契約を通してであり、契約を通して答えが与えられます:神ご自身が、従順な契約の相手、すなわちキリストを提供することによって、ご自身の約束を守るために一方的に行動されるのです。
キリストだけが私たちの救いを保証することができ、キリストにおいてのみ契約が成就するのです」。
契約におけるこの二重の強調を維持すれば、キリストにおいて新しい契約がどのように、そしてなぜ破られないのかを説明することができます。これこそが聖書におけるキリストの中心性を裏付けます。聖書の契約の物語は、私たちを彼へと導きます。キリストだけが救いを確保し、キリストにおいてのみ契約が成就します。
では、聖書はどのように契約を表現しているのでしょうか?二つの契約という構造ではなく、神の一つの救済計画が複数の契約を通して展開され、そのすべてがより優れた新しい契約を徐々に明らかにしています。このような理由から、特に割礼とバプテスマ、イスラエルと教会の、混在という性質に関して、神の全体的な計画の中でそれぞれの契約がどのように機能しているのか、また、キリストがご自身のうちにすべての契約を成就させ、その結果、契約全体にわたって決定的な変化が生じ、新しい契約においてより大きな成就に至るということを考えずに、単に「恵みの契約」に訴え、連続性の直線を引くことはできないのです。
第二に、(ディスペンセーション主義とは異なる)契約神学において、なぜ契約が単に聖書の統一テーマではなく、天地創造に始まりキリストに至る、聖書の救済の筋書きの骨格をなしているのかを説明する必要があります。ディスペンセーション主義は、創世記1章から11章が聖書の物語にとって重要であることを認めていますが、「創造の契約という考えは......役割を持たない」3と言います。しかし、これが問題です。このような契約を裏付ける証拠は豊富にあり、契約をまとめる上での意義は2つあります4。
第一に、天地創造の契約は、それ以降のすべての契約において、私たちを代表するかしらとしてのアダムの役割を解き明かしているため、将来のすべての契約の基礎となっています(ローマ5:12-21、ヘブル2:5-18)。アダム、そしてすべての人類は、被造物を支配する神のかたちである息子として創造されました(創世記1:26-28、詩篇8篇)。アダムは神の支配を世に媒介する中で、神を知るために造られました。神は契約の相手に完全な服従を求めるが、悲しいことながら、彼はそれを果たせませんでした(創世記2:16-17;創世記3:1-6参照)。しかし神は慈悲深く、罪と死の影響を逆転させる偉大なアダム、女性の子孫が来ることを約束しています(創世記3:15 )。それ以降のすべての契約のかしら(ノア、アブラハム、イスラエル、ダビデ)は、アダムの一部分として機能しますが、彼らはより偉大なアダムではありません。優れたアダムを指し示すのです。土台となる創造の契約がなければ、残りの契約は宙ぶらりんになってしまいます。
第二に、キリストと新しい契約で成就される大事な予型的なパターンを設けるために創造の契約は基盤となります。たとえば、七日目の安息(創世記2:1-3)とキリストにおける救いの安息(ヘブル3:7-4:13)、神殿の聖所としてのエデンとそれを成就した新しい神殿としてのキリスト(ヨハネ2:19-22)、キリストが成就した預言者、祭司、王としてのアダム(使徒2:36、3:22-26、ヘブル7)などです。これらの予型的なパターンが契約を通して明らかにされるにつれて、それらは最終的にキリストとその教会に終結します。
したがって、聖書に従って契約をまとめるには、創造から始めなければなりません。創世記1章から11章は、アダムとの間で最初に結ばれ、ノアで支持された神の創造契約によって枠組まれています。そして、神の救いの約束(創世記3:15)が、アブラハム契約とモーセ契約を通してより明確にされると、世界を永遠に支配するダビデの子である王という個人の約束(サムエル記第二7:14、19)においてクライマックスを迎えます。この子の約束には、神の子としてのイスラエル(出エジプト記4:22)だけでなく、アダムと最初の種の約束(創世記3:15)のこだまも聞こえます。神の契約的計画の中心は、被造物における人類の役割の回復であり、ダビデに到達する頃には、このことがダビデの偉大な息子を通して起こることが分かっていました。
しかし、ダビデとその息子たちは神の教えに背いたため、神の約束に疑問が残りました。預言者たちのメッセージは、イスラエルがその契約に違反したけれども、神は忠実なダビデ王を与えることによって贖うという約束を守る、というものです(詩篇2篇、72篇、110篇、イザヤ7:14、9:6-7、11:1-10、49:1-7、52:13-53:12、55:3、61:1-3、エレミヤ23:5-6、エゼキエル34:23-24)。「主のしもべ」とされるこの王において、聖霊が注がれ(エゼキエル36-37章、ヨエル2:28-32)、神の救いの支配が諸国民の間にもたらされ、罪の赦しを与え(エレミヤ31:34章)、新しい創造(イザヤ65:17)を通して新しい・永遠の契約が結ばれます。預言者たちの希望は新しい契約にあります。
このため、新しい契約は、契約神学が教えるように、単に以前の契約の更新ではありません。それどころか、これまでの契約の成就であり、より優れたものなのです。すべての契約は神の一つの計画の一部ですから、どの契約もそれ以前のものと無関係ではなく、キリストにおける成就を離れては意味をなしません。間違いなく、新しい契約の成就には、「もうすでに、そしてまだ」という側面があります。しかし、以前の契約によって明らかにされ、予期され、予言されていたことが今ここにあります。イエスが最後のアダムであり、新しい創造のかしらであり(ローマ5:12-21、第一コリント15:21-22)、諸国民に祝福をもたらすアブラハムの真の種・子孫であり(ガラテヤ3:16)、真のイスラエルであり、イスラエルがなり損ねたすべてを成就させ(マタイ2:15、ヨハネ15:1-6)、ダビデのより優れた息子であり、主として諸国民と被造物全体を支配するのはこのためです。
聖書の契約の物語は天地創造から始まり、契約を適切にまとめるには、キリストと新しい契約の批准における神の計画と約束のすべての成就へと移行する天地創造の契約から始める必要があります。
第三に、私たちが契約を考える際には、イスラエルと教会の関係も考慮しなければなりません。聖書はこの関係について、神学者が考慮しなければならない真理を少なくとも2つ教えています。
第一に、ディスペンセーション主義に対して聖書は、神は一つの民を持ち、イスラエルと教会の関係はキリスト論的に見るべきだと教えています。教会は直接的には、新しいイスラエルやその代わりではありません。むしろ、キリストにあって、教会は神の新しい契約の民なのです。なぜなら、イエスはアダムとイスラエルの典型的な成就であり、その働きによって約束を受け継ぐアブラハムの真の子孫だからです(ガラテヤ3:16 )。神の新しい創造物/人類として、教会は永遠に残り、信じるユダヤ人と異邦人で構成され、キリストにおける神の約束のすべてを等しく完全に受け、新しい創造において完全に実現されます(ローマ4:13、ヘブル11:10、16)。エペソ2:11-22が教えているように、教会はイスラエルの延長でもなければ、ユダヤ人と異邦人の合体でもありません。また、国家イスラエルと諸国民を回復するために、キリストが再臨されたときに終わる神の計画の一段階でもありません。むしろ、教会は神の新しい創造の民であり、永遠に続くキリストの花嫁です(黙示録21:1-4)。ディスペンセーション主義とその契約的構成は、これらの真理を十分に考慮していません。
しかし契約神学に反して第二に、教会はまた新しく、イスラエルとは異なる構成をしています。契約神学は、旧約下のイスラエルが混ざった民として構成されていたことを正しく指摘しています(ローマ9:6)。しかし、それでは教会の新しさを十分に説明できません。旧約聖書の預言者たちが予期していたことが、今、キリストの教会において実現されていることを認めていません。すなわち、新しい契約において、神の民はみな神を知り、信者はみな、御霊によって生まれ、強められ、内住され、罪の完全な赦しを受ける(エレミヤ31:31-34)ことを認めていません。
外面的な割礼/洗礼によってではなく、御霊の働きである、生まれ変わりと救いの信仰の授与によって、キリストの内にいるのです。
二つの契約という見解を理由として、契約神学は最初の契約から新しい契約への移り変わりの中で、神様とその民の関係が変わったことを見逃してしまいます。私たちが新しい契約に入るのは、肉体的な誕生ではなく、霊的な誕生によるのです。このため、教会は「あなたとあなたの実子たち」ではなく、救い主として神を知るすべての人によって構成されます。外面的な割礼/洗礼によってではなく、御霊の働きである、生まれ変わりと救いの信仰の授与によって、キリストの内にいるのです。イスラエルとは対照的に、教会は信じる者、新生した民として構成されています。だからこそ、新約聖書における洗礼(新しい契約のしるし)は、信仰を公言し、自分がもはやアダムの中にいるのではなく、キリストの中にいるという確かな証拠を示す者にのみ適用されるのです。また、割礼と洗礼が、それぞれの契約の違いにより、同じ現実を意味しない理由も説明しています。割礼と洗礼が同じ現実を示していると考えるのは、契約の区分においての間違いです。
このような教会観は、他の真理によっても裏付けられています。私たちは栄化を待ち望んでいますが、今の教会こそが「来るべき時代 」に認識されている終末論的な民の集まりです。キリストに信仰を置いた者にとって、私たちは今や新しい/天のエルサレムの市民であり、もはやアダムの中にいるのではなく、キリストの中にいるのです。そして、その結びつきのすべての恩恵を受けています(ヘブル12:18-29)。また、教会は御霊が宿る新しい創造・神殿であり(第一コリント6:19、エペソ2:21)、それは昔のイスラエルとは異なり、新生した民にのみ当てはまります。これらの点に関して、契約神学は契約をまとめる際に不正確であるため、すべての契約がキリストにおいて成就し、その結果、教会が新しいことを十分に説明していません。
これらの重要な問題を議論し続けるとき、聖書が示していることに自分の見解を合わせることにとどまるのではなく、神のすべての計画と目的の中心であるキリスト・イエスに栄光を帰すことを目指すのが最も重要でしょう。キリストにおいてのみ、神の約束はすべて「はい」と「アーメン」です(第二コリント1:20)。契約についての議論においてこれを忘れてはいけません。
キリストにおいて、神である子は約束された人間である子となり、アブラハムの種、真のイスラエル、ダビデの大いなる子となりました。キリストの生涯、死、復活、昇天、そして聖霊降臨によって、キリストは私たちの罪を贖い、私たちを新しい被造物として造り変えてくださいます。契約の中心は究極的には、神の約束がキリストにあってのみすべて成就し、私たちが創造された当初の目的は今や達成され、恵みによって、教会は今も昔も、キリストの栄光と勝利の御業の受益者であるということです。聖書に従って契約をどのようにまとめるか格闘し続ける中で、この輝かしい真理がキリストの教会をひとつにすることを祈っています。
スティーブン・ウェルムは、ケンタッキー州ルイビルにある南部バプテスト神学校のキリスト教神学教授であり、『南部バプテスト神学ジャーナル』の編集者であり、 『Kingdom Through Covenant』などの共著者です。スティーブンは妻のカレンと5人の子供たちとともにルイビルに住んでいます。